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三田文学編集部
〒108-8345東京都港区三田2-15-45
慶應義塾大学内
mitabun@muse.dti.ne.jp

 
遠藤周作 〔1923(大正12)年~1996(平成8)年〕

遠藤周作は、三田文学ととても関わりの深い作家です。
1945(昭和20)年に三田へ進学し、2年後に評論を三田文学に初掲載、そして仏留学を挟み、1954(昭和29)年に処女小説を発表した、書き手として関わった時代。 芥川賞を受賞し、人気作家となった後に編集長として後進の育成に力を注いだ時代。 そして編集長を辞した後も、理事として関わり、三田文学を見守り続けました。

話題がたくさんあるので、3回に分けて紹介いたします。 今回は、遠藤周作が三田文学と出会うまでを……。

遠藤周作は1923(大正12)年、東京巣鴨に生まれました。
父の転勤により満州で幼少期を過ごしますが、10歳で父母が離婚。母に連れられて兄と共に日本へ帰国します。
中学生になると母の後を追うように洗礼を受けました。半ば自分の意志に反して受けた洗礼を「だぶだぶの洋服」と後に表現しています。

1941(昭和16)年私立灘中学を卒業。上智大学予科甲類に入学し籍を置いて、旧制高校を目指して勉強しますが、受験を失敗。 翌年、上智を退学し経堂の父の家に移ったのは母の経済的負担を考えただけでなく、庇護者である母自身との衝突もあったようです。 それは母に着せられた「だぶだぶの洋服」への違和感を強めることになったようで、上智大学校友誌「上智」第1号に掲載された「形而上的神、宗教的神」にはキリスト教への疑念が見え隠れしているようです。(久松健一「遠藤周作 年譜に隠された秘密」三田文学87号

1943(昭和18)年、遠藤は慶應義塾大学文学部予科に入学しました。父が命じた医学部を受けなかったために勘当され、友人宅に一時暮らした後、学生寮へ入ります。ドイツ語のクラスにいてフランス語を知らない遠藤でしたが、一冊の本を理由に仏文科進学を決めました。
予科時代は軍事教練と勤労動員ばかりで、講義はほとんどなく、その日も工場の帰りだった。たまたま立寄った下北沢の古本屋で『フランス文学素描』という本を見つけた。(中略)本には三田の仏文科の講師佐藤朔と言う名が書いてあったが、私はそれまで佐藤朔先生のお名前も知らぬほど不勉強な学生であった。
                               (遠藤周作「佐藤朔先生の思い出」三田文学46号
ただ自分が進む学部の先生の本だという理由だけで買った本でしたが、その夜に一気に読み終えるほど面白く、自分はこの先生の許で勉強したいと思ったのです。 1945(昭和20)年、終戦の年に遠藤は仏文科へ進学しました。
校舎の半分は米国軍が接収し、大講堂は焼け、図書館も使い物にならぬ状態だった。それでも講義は何とか再開されて、やっと学生生活らしいものがはじまった。
                                 (遠藤周作「老兵の期待」三田文学復刊第1号
しかし、肝心の佐藤朔が病気で、講義が一年間休校でした。遠藤は悩んだ末、佐藤朔に手紙を書きます。「自分の気持ちを素直にのべ、先生のお宅に伺ってご指導を受けたい」という内容の手紙に、「いつでも遊びに来給え」という親切な返事が来ました。それ以降二週に一度、遠藤は佐藤朔の自宅へ通い仏文の原書を渡され、次回までに辞書を片手に必死になって読み上げるようになります。「この時から私は勉強に熱中しだした」と遠藤は回顧しています。
2年後、遠藤が大学3年生に進級すると、佐藤朔も大学へ戻ってきました。遠藤が書いた「たまたまエッセイの真似ごとのようなもの」を佐藤朔に見せると、「三田文学にもっていってやろう」と思いがけない言葉をもらい、期待して待っていると当時編集をしていた原民喜から掲載通知の葉書が届きます。
遠藤周作と原民喜が出会い、三田文学に「カトリツク作家の問題」が掲載され、遠藤周作の「三田文学の青春時代」が始まるのです。(遠藤周作「『三田文学』の青春」三田文学28号

続く

  (黒川英市)

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