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三田文学編集部
〒108-8345東京都港区三田2-15-45
慶應義塾大学内
mitabun@muse.dti.ne.jp

 
堀口大學 〔1892(明治25)年~1981(昭和56)年〕

この銀杏だったのだろうか。この銀杏のある風景の中に、堀口さんもいたのだろうか。
――「三田文学」71号から98号に連載された長谷川郁夫氏の評論を読み進めるうちに、文中に現れる「堀口さん」という親しげな呼び名がうつってしまっていけない。いけないと思いつつも、しかし、そう呼んでいいと思わせるところが、堀口大學という詩人にはどうもあるように思われるのだ。堀口さんの三田にまつわる思い出を、長谷川氏に倣ってたどってみたい。

1910(明治43)年9月、堀口大學は新詩社で出会った友人、佐藤春夫とともに慶應義塾大学文科予科に入学した。同年6月に二人とも「仲よく」第一高等学校の受験に失敗したところで、堀口さんにとっては二度目の失敗であった。しかしそこに「挫折」というような暗い影は感じられない。むしろ、当時のことを語る堀口さんの言葉には、読む人の気持ちを高揚させるものがある。
……その春、仲よく一高の入試に失敗した佐藤春夫と僕は、語り合つて、ここへ入學することにした。勿論、荷風先生のお人がらと文名を慕つてのことだ。だがこれには入學試驗があった。科目は英漢數だけだつたと記憶するが、二人とも一高の入試に落ちた矢先とて、甚だ心もとなかつた。またここで落ちるやうでは困るのである。それに一高の時とはちがつて、三田の文科へは、是非とも入りたかつた。鷗外、敏の兩博士を顧問に、小山内薰、馬場孤蝶、野口米次郎、 戶川秋骨と、當時の文學靑年にとつて魅力百パーセントの名を教授陣に連ね、月々新鮮味溢るるばかりの「三田文學」を發行してゐる三田の文科へは、何とかして入りたかつた。
                     (「恩師永井荷風先生」堀口大學全集6, 小澤書店)
時は折しも、慶應義塾文科が刷新を図るべく永井荷風を部長として招き、彼を編集兼発行人とする「三田文学」が創刊されて間もないころであった。そして堀口さんと「三田文学」は出会うのだ。それも永井荷風からの直接の誘いによって。それは、「三田の丘の上には、建物はまだまばらで、いたずらに銀杏の大樹だけが品川湾からの海風につやのよい葉をひらめかせていた」ころだった。堀口さんの著作に次のような回想が残っている。
塾監局と呼ばれている教務兼教員室と教室のある建物とは、渡り廊下でつながれていたが、或る日、いつも一緒の佐藤春夫君と僕は、そこの腰板によりかかって、日向ぼっこをしていた。たまたま通りかかられた荷風先生は、僕らがそこにいるとごらんになると、立ちどまりになって、あの持ちまえの、露したたらんばかりと形容したいほど、温情のこもった微笑と一緒におっしゃったものだ、 「君たちは『スバル』に書いているんだってね。今度何か出来たら見せてくれ給え、『三田文学』にものせたいから」
                               (「師恩に思う」堀口大學全集6, 小澤書店)
それから50年あまりのときを経てもなお、堀口さんはそのときの永井荷風の声を「空から落ちてきた天使の声のように、大切に耳の奥にしまっている」という。慶應に入り、永井荷風と、そして「三田文学」と出会ったこと。それは若き日の詩人にとってどんな出来事だったのだろうか。この道がどこに続くのか、どれだけ続くのか何もわからなかったそのときの堀口さんにとって、一体どんな。堀口大學の「三田文学」への登場は、1911(明治44)年6月号であった。北原白秋や木下杢太郎への傾斜を思わせる詩3篇(「女の眼と銀の鑵」、「おかると勘平と人魚と」、「さぼてんの花」)が掲載されたという。

しかし堀口大學の大学在籍はわずか10ヶ月であった。文学青年のきまぐれで、まさか進級を逃してしまったのかといえばそうではない。後の堀口大學の業績を顧みれば不思議なことに、フランス語で「不可」をもらったが、4月に進級はできていた。原因は、外交官でメキシコに赴任していた父・九萬一からの呼び出しであった。ある日突然外務省からパスポートが届けられ、メキシコ行きの乗船券が送られてきたというのだからまるで映画のような話だ。もともと九萬一は息子を自分と同じ外交官にするために、第一高等学校フランス法科に入れることを望んでいたのだが、堀口さんは父に内緒で慶應の文科に進んでいたのである。それが父に知られてしまったのだ。しかし、父親も、文学なんぞ捨てて来いとは言わず、旨い餌で堀口さんを釣ったのだという。「日本にいても、好きなフランス語もおぼえられないらしいし、ろくな勉強も出来ないらしい様子だから、ベルギーへ留学させてやる。途中、暫く会わないから、メキシコへ立寄って顔を見せて行け」(「青春の詩情(続)」堀口大學全集7, 小澤書店)。そして若き日の詩人は、父がさしだすこの餌をあっさり呑みこむことにしたのだった。堀口さんは幼いころに母親を結核で亡くしている。そして、父親とも久しく離れて暮らしてきた。そんな青年が、順調に思われた文学への道も半ばに、年の2つ離れた妹を一人日本に残して、父とベルギー人の継母、そして義妹、義弟の住むメキシコへと旅立つことを決意したのである。堀口さんの中南米、ヨーロッパ滞在は、三度の短期帰国こそあったが、1911(明治44)年7月から1925(大正14)年まで、15年にも及ぶものとなった。「三田文学」には滞在地からの堀口さんの寄稿が残っている。

三田キャンパスの中心に立つ、銀杏の大樹。今まで幾度色づき、葉を落とし、そしてまた芽吹き、緑をかがやかせてきたのか。この樹が植えられた時期は定かではないようだが、どうやら明治と大正のあいだであったらしい。この銀杏のある風景の中に、堀口さんもいたのかもしれない。そう思うだけで、見慣れたはずの景色の空気が、たしかに、変わった。

  (永野景瑚)

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