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三田文学編集部
〒108-8345東京都港区三田2-15-45
慶應義塾大学内
mitabun@muse.dti.ne.jp

 
永井荷風 〔1879(明治12)年~1959(昭和34)年〕

福澤諭吉が1858(安政5)年に開いた慶應義塾は、1890(明治23)年に文学科・法律科・理財科からなる大学部を設置しました。しかし文学科は生徒が集まらずに毎年の卒業生は十人未満。「文学科は廃止せよ」と主張する他学科の教授もいる程の危機的な状況でした。
1910(明治43)年1月、慶應義塾の幹事だった石田新太郎が「名のある文士を迎え、大学で文芸雑誌を出したい」と恩師である森鷗外に相談すると、鷗外は永井荷風を推挙します。

永井荷風は1879(明治12)年、高級官僚の家に生まれました。16歳の冬に病気で1年間休学し、その間にひたすら小説類をむさぼり読みます。もしこの事がなかったら文学者などにはならなかったと、後に述懐しています(持田叙子「蒲柳の文学」三田文学100号
23歳で書いた小説「地獄の花」が鷗外に絶賛され荷風は人気作家となりますが、荷風の父はアメリカへ留学させます。中学を落第し、落語家に弟子入りしたり小説を書いたりしている長男に実業を学ばせるためです。荷風本人はアメリカではなくフランスへ行きたかったのですが、とにかく海外へ行けば作品のネタになるし、フランスへ行ける可能性も出てくると考えて父に従うことにしました。そして3年間のアメリカ滞在を経たのち、目論見通りフランス留学を果たし、合計4年間の海外生活を終えて日本へ帰ってきます(「永井荷風とカラマズーとその時代」ジェフリー・アングルス/「日本近代文学の逆説」田中和生 三田文学84号
人気作家で新帰朝者。鷗外が推挙した荷風は、慶應義塾にとっても魅力的な人材でした。

1910(明治43)年2月、石田は鷗外の紹介状を持って荷風の家に行きます。荷風は突然の「黒い洋服を着て濃い髭のある厳しい顔立ちの紳士の訪問」に「坐住居をさえ直して挨拶」をしました。そして教授就任の要請を快諾し、三田文学の編集も始めたのです。この様子を荷風は「紅茶の後」という随筆に書き「三田文学」創刊号に掲載しました(「三田文学名作選」に再掲)。

4月16日、新年度の授業が始まり、荷風は「文学評論」「仏語」「仏文学」を担当しました。
鷗外や漱石と違い、残念ながら荷風の授業内容は残っていません。しかし、学生には大変人気があったようで、理財科の助手だった小泉信三もまめに出席していたといいます。また、授業が終わると学生たちを集めてよく話し合っていたようで、佐藤春夫、水上瀧太郎、堀口大學もそのことを書いています。

そして5月1日に「三田文学」創刊号が世に出ました。荷風は時代を見すえた名編集長ぶりを発揮します。新鋭・谷崎潤一郎にいち早く誌面を提供、荷風自身も谷崎論を書き、評価を決定づけました。泉鏡花は人気作家でしたが、自然主義の作家らから迫害され、発表の場を減らされていました。そこへ荷風が手をさしのべ、明治43年10月号に原稿用紙百枚の「三味線堀」を一挙掲載します。
編集のかたわら自身でも毎号執筆し、「紅茶の後」「日和下駄」などは特に高い評価を得ました。またフランスの詩や評論を多数翻訳しているのは、文学科の授業と関係があると見られます。

「三田文学」は順調な滑り出しをしたかに見えましたが、翌1911年に二度の発禁処分を受けます。特に谷崎潤一郎の「颷風」(「三田文学名作選」再掲)が問題となった時は大学当局からかなり手厳しく追及され、釈明文も書いています。これを機に大学内から荷風一人に編集を任せてはいられないという意見が出て、以降の原稿は慶應義塾の塾監局の確認を受けてから印刷所へ回すことになりました。荷風にとっては屈辱だったようです。
2年後には、原稿料も大学当局が決めることになりました。そんなことが積もり積もって、荷風の中には倦怠感が出てきたようです。(古屋健三・加藤宗哉[対談]「慶應義塾大学教授・永井荷風―初代編集長を語る」三田文学100号
1915年、荷風は「三田文学」編集兼発行人を石田新太郎に託し、翌年には慶應義塾の教職を辞任しました。

荷風以来の「三田文学」の使命、新人の育成と、三田という門戸の開放は今も守り続けられています。

   (黒川英市)

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